こんにちは。

私は、昨年よりお寺に入ったので、仏教学を絶賛勉強中でございます。(その前はサラリーマンをしておりました。)

仏教学は本当に奥が深いですね。難解で理解するのに、苦労してしまいます。どうしても自分の心で理解しようとしてしまうので、ある意味素直に受け入れらていないこともあるのかもしれません。自分の眼で見てきたこと、自分の耳で聞いてこと、自分の鼻で嗅いできたこと、自分の舌で味わってきたこと、自分の身(からだ)で感じてきたこと、それら全てを自分の意(こころ)の中に蓄積したことが、私の見方になってしまいます。その蓄積されたものが、私の見方(判断基準)になってしまいます。その判断基準が正しいか?は、他人にとってはわかりませんが、自分にとっては正しいと思ってしまいがちです。だから、人によって見方は変わるのだと思います。

また、加えて自分に置かれている状況によっても、見方は変わるのかもしれません。例えば、雨ですね。雨が降ると嫌だなと感じる人は多いと思います。明日から旅行だっていう日に、雨が降ると嫌ですよね。傘はかさばるし、服は濡れるし、靴が濡れると靴下まで水分がきて、足がふにゃふにゃになるし・・・等、そこまで考える人もいるかもしれません。でももしかすると花粉症で悩んでいる人にとっては、雨が降ると花粉症が楽になるので、雨で濡れるよりも良い!っていう人もいるかもしれません。(私は花粉症なので、この時期に限っては雨が降ってくれるとありがたいと感じてしまいます)

自分とは全く正反対の考え方があるということですね。また雨が降ると、足が濡れるまで感じるという事こそ、先ほどの自分の意(心)に蓄積した経験に基づく判断そのものですね。

自分の見方があると、本を読んでいる時でも、話を聞いている時でも、周りから与えられる情報を得る時に、常に自分の意(心)が働きます。要は情報を自分の意(心)と照らし合わせているのですね。納得できるものもあれば、納得できないものもあるかもしれません。人の意見や情報を、素直に受け入れる事が出来ないのは、この自分の意が邪魔をしているのですね。

御釈迦様は、このことを理解しておられました。だから「正しい眼」を持つことが第一だとおっしゃられました。正しい眼とは、この世の中の普遍の真理に基づいた眼です。

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